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■『戦旗』1655号(4月5日)4-5面

 
性暴力と性的自己決定権
 ――性産業廃絶論を巡って

 
                               けらん
 

 性暴力と性的自己決定権とはなにか。それらの定義を突き詰めて考えたことがあるだろうか。性暴力と性的自己決定権を正しく理解できていない場合、それは性暴力被害者の分断に加担したり、セックスワーク差別の言説と一致したりすることが多い。ジェンダーとセクシュアリティに基づく全ての差別、性暴力の根絶のために、最も基本的な性暴力と性的自己決定権が何かを理解しなければならない。性的自己決定権は特に、セックスワークに関した議論において誤って使用されているケースが多く見受けられる。わかりやすいよう、よくある主張を具体的に出しながら、これらについて述べていく。

性暴力とは何か?

 性的自己決定権の侵害である。では、性的自己決定権とはなんだろうか。
 最も一般的には、「いつ、だれと、どのように性的な関係を持つか/持たないかを自分で決める権利」と言われている。そこまでは理解していても、「あなたは、この人とセックスしたいですか、したくないですか」と問い、「はい/いいえ」と答えることこそが性的自己決定権だと誤った理解をしている人が多い。そうではなく、より正確に述べるのならば、性的自己決定権とは、「いつ、だれと、どのように性的な関係を持つか/持たないか、どのような選択をしたとしても、暴力や差別を受けないことが保障される権利」である。
 もちろん、性的な行為や関係を結ぶ際に相手に合意の有無を確かめるプロセスが飛ばされてはならない。しかし、性的自己決定権とは、「問うたか、問わなかったのか」「はい/いいえと答えたのか、答えなかったのか」というところに収れんされるものではない。あなたが、どんな「答え」をする/したとしても、暴力や差別を受けないことが社会的に保障されることが、「性的自己決定権の尊重」なのだ。
 性暴力被害者がいつも、「明確な拒否の意思表示をしたのか、しなかったのか」だけを問われる構造、そして婚姻関係内や恋愛関係内の、あるいは「同意」してしまった被害者たちが全く救済されないことに対し闘ってきた人々が切り開いて来た地平として、このような性的自己決定権の保障という考え方が確立された。婚姻関係でも恋人関係でも性行為をしたくない時に拒否しても、複数のパートナーと関係を持っても、同性と関係を持っても、あるいは誰とも性的な関係を持たなくても、どんな選択をしても、それによって暴力や差別を受けない環境をつくることこそが、真の性的自己決定権の確立なのだ。
 つまり、逆に言えば、性行為を相手に拒否されたことを理由に離婚が認められる日本の婚姻制度や、複数のパートナーと関係を持つ人が「不道徳」であるとする考え方、あるいは誰とも性的な関係を結びたくない人を「普通ではない」と見なす考え方は、性的自己決定権の尊重とは真っ向から対立する。

セックスワークと性的自己決定権

 セックスワークを選ぶ人たちは格差や不平等によって、セックスワークを選ばざるをえない場合が多い。これは、「自由意志」ではないため、性的自己決定権が侵害されているのではないか、と問う人がいる。しかし、そもそも「自由意志」という概念自体が非常に曖昧である。どんな人たちが「自由意志」で職業を選んでいるだろうか。人は、自分の条件のなかで職業を選ばざるを得ない。学歴やジェンダー、障害者かどうか、誰もが自由意志で職業を決めているだろうか? 貧困や差別によって3K(きつい・きたない・きけん)労働に就かなければならない人も多い。資本主義社会で労働者は賃金を得ることを目的として仕事をしている。セックスワークを選ぶ人たちも、自分の条件の中で、賃金と引き換えにセックスワークを選んでいる。ここで、女性やセクシャルマイノリティの人々が貧困に追いやられている差別の構造を不問にして良いと言っているわけでは決してない。問題は、現実に今、働いていて、労働者としての権利保障から不当に排除され、差別されているセックスワーカーたちの個別具体的な労働問題を問題にしていくべきであるということ。セックスワーカーたちの意思を「自由」か「強制」か、を外部から議論したところで、実際に働いている人たち、今この瞬間も死を含む苦境に追いやられている人たちには何の助けにもならないということだ。
 つまり、セックスワークにしても搾取や暴力は問題にしていくべきであることは他の労働と同じことだ。実際に、セックスワーカーではない労働者も日々、搾取、暴力/性暴力を受けているが、それに対抗する闘いが展開されているし、労働者の権利として労働三権、労働組合、労働基準法や、最低賃金は労働者階級の闘いによって勝ち取って来たものだ。問題は、セックスワーカーはそのような基本的な労働者の権利の枠からも外されていることである。だから暴力や搾取に歯止めが利かなくなっているケースがある。それを是正するためには、サービスを労働だと認めさせ、労働者としての基本的な権利を獲得していく以外方法がない。

セックスワークを労働として認めることは、暴力や差別を助長するのか

 まずそもそもセックスワークを労働として認めよと主張している当事者は、暴力や差別に抗うためにそう主張している。暴力を受けても、摘発を恐れ警察にも行けない、医療現場でも差別にあい、労働組合にもほとんど相手にしてもらえない。スティグマや差別のせいで家族や友人、行政にも相談できない。このような状況を打開するために、「恥ずかしくない」仕事であること、そして労働者としての権利を主張している。また、性暴力や女性差別、セクシャルマイノリティへの差別は、性産業ではないセクターにおいても存在する。実際の性暴力の相当数は、パートナー間、婚姻関係内や家庭内で起きている。また、それは無くなる気配がない。性暴力や女性差別、セクシャルマイノリティ差別はこの社会のありとあらゆるところに家父長制とともに組み込まれており、性産業によって差別が加速されているわけではない。
 性差別・性暴力について論理的な主張をするのであれば、少なくとも、女性差別を制度として組み込んでおり性暴力が多発している婚姻制度の廃止と、性産業の廃止を同時に唱えるべきだ。しかし、婚姻制度は問題にせず、性産業だけを問題にするのは、結局セックスワークに対する偏見や性的なサービスを売り買いすることに対する嫌悪感による場合がほとんどだ。
 権力者の側としては、セックスワーカーの無権利状態を、家父長制の補完として必ず維持したいという思惑がある。暴力や差別を助長するという理由による性産業廃絶論やセックスワーク規制要求は、結局そういった権力側の思惑と一致してしまう。結果として労働者階級の分断に加担する。

「性的同意」を売買できるか

 第一に、セックスワーカーが売っているのは自らの労働力であり、定められたサービスであり、性的同意や性的自己決定権、さらに言えば「身体」を売っているわけではない。性的同意は、性的な行為の前に相手に同意の有無を確認することであり、性的自己決定権とは違う。この疑問をもっと平易に言えば、お金をエサに「性的同意」を引き出しているのであって、それは本来的な「性的同意」ではない、本来的な「性的同意」は売買できるものではないという考え方だ。しかし、この「性的同意」という概念にも先に答えた「自由意志」と同じように曖昧なところがある。セックスワーカーは契約を結ぶ際に、どういった内容のサービスを提供するかを了承している。それはセックスワーカーではない労働者も同じであり、労働者側は決められた職務内容やサービスの提供に同意し、雇用契約が成立する。もちろんそこに詐欺があってはいけないが、セックスワーカーが、事前にサービスの内容について同意している限りにおいて、他の労使契約と同様に問題はない。セックスワーカーが同意しているのは、定められたサービスであり、それ以上のことを要求されたとしても、それは拒否できるし、むしろ拒否することによって暴力にさらされてはならない。
 実際に店舗型の風俗店では、選択したサービス内容を超える要求をセックスワーカーに対して行った場合は、店舗職員が顧客を制したり、追い出すなどの対策を取っている。それは雇用主の論理としても、支払われたサービス以上のものを提供することはできないからだ。「性的同意」は、性暴力を起こさないために必要とされるプロセスのことであって、そのプロセスは性産業だけでなく全ての人に求められることである。
 「性的同意」を売買しているというような誤解を生む表現は、さらにセックスワーカーに対するスティグマを強化し、暴力にさらすことになる。仮に「性的同意」が売買できるものとして考えてみよう。たとえば多くの人は結婚において、相手にどれほど経済力があるか、ないか、をかなり重視してパートナーを選んでいる。特にシスヘテロ女性(※註)にとって結婚は、社会生活のセーフティーネットとして機能している側面がある。現在の男性中心主義的な日本社会においては女性が自分ひとりの賃金では食べて行くのも、子供をつくるのも育てるのも困難だから、なるべくお金のある男性と結婚しようとする。結婚相手に求める条件について、女性は男性より圧倒的に「経済力」を多く挙げており、一位か二位を毎年行き交っている。相手の経済力を頼りに結婚したり、経済力のある男性と婚姻・恋愛関係になるためにセックスをする女性について、これはお金で「性的同意」を引き出していないと、本当に言えるだろうか?
 そもそも日本では、恋愛関係や、婚姻関係になることは、セックスしても良いことだと間違って理解されている。婚姻関係内の方がむしろ、性的行為の内容が先に明文化されて定められておらず、たとえば避妊具なしなど「同意」を上回る要求をしても、それは婚姻関係内ならば問題ないという考え方がある。こういった性暴力は絶対に許されてはならない。セックスワーク規制や性産業廃絶のために、「性的同意」の概念を持ち出すのは、完全な誤りである。
(註)シスヘテロ女性:生まれた時に割り当てられた性別が女性であり、女性を自認しており異性愛者の女性のこと。

「性の商品化」に反対という考え方について

 そもそも「性の商品化」とは何か? セックスワークの本番行為のことだけを指しているのか? 挿入行為を伴わないSMクラブやチャットレディなども含んでいるのか? ホスト、ガールズバー、メイド喫茶、執事喫茶などのコンセプトカフェで働いている人、「綺麗な容姿」を重視されるモデル、アイドルは、「性の商品化」か? お金を貰って代理出産をする人や、精子を売る人は? 日本でも既に障害者向けのマスターベーション介助のサービスが展開されているが、それも「性の商品化」として反対するのか?
 繰り返しになるが、セックスワーカーが売っているのは労働力、一定のサービスであり、性を売っているわけではない。「性の商品化」という考え方は、まず多様な性の在り方やセクシュアリティについての考察が抜けていると言わざるを得ない。ジェンダー規範に基づく差別や暴力は、ありとあらゆるところで氾濫しており、それは労働のセクターにおいても、「プライベート」なセクターにおいても、同様である。性暴力やジェンダー規範の強化に対して反対していくことは必要だ。しかし、セックスワークに関しては、そこに暴力がない限りにおいて、セックスワークそのものは広がりを持って構わないはずだ。
 実際に、セックスワークは、自らの性的指向、性的嗜好が「異常」だと社会的にみなされ、それをオープンにすることができなかった人たちのよりどころになってきた歴史がある(インターネットの発達していなかった時代、ゲイやレズビアン、あるいは特定の性表現を好む人たちにとっては性産業の中で労働者や顧客としてやっと自らの望む性の在り方=セクシュアリティを実現できた)。多様な性の在り方は広く認められるべきだ。私たちは皆、性に関して非常に抑圧され、型にはまることを強制されている現実をまず知るべきである。どんなセクシュアリティであろうと、誰かに対する暴力を伴わない限りにおいて、それは絶対に認められるべきだ。ある性的嗜好を持つ人たちを「犯罪予備軍」「気持ち悪い」とみなす考え方こそが批判されるべきなのだ。様々なニーズに応じて、相当に幅広いサービスが展開されることは、もちろんそこに資本の論理はあるものの、決して一概に悪いと言えるものではないはずである。そもそもこれらのことを悪いことだと主張している人の大半は、セックスワークの実態や多様性についてかなり無知であることが多い。いわゆる本番系や、非本番系と分類される中でも、相当に多種多様なサービスが展開されていることをまずは知るべきだ。セックスワークには、奴隷状態にある人身売買の被害者などはもちろん含まれない。賃労働としてのセックスワークは、食事の配達サービスや、レンタル・フレンド、掃除代行、ペットの世話の代行などと同じようなサービス業の一種だ。その上で当然、資本主義の打倒を目指しているわれわれとしてはそこにある搾取は問題にしていくべきだろう。

性産業廃絶論をどう考えるか

 性産業廃絶論は、最終的に性産業のない社会を目指していることでは一致するが、そのプロセスには主張によって開きがある。その論が依拠するのは、おおよそ以下のいずれかの考え(あるいは以下の複数の考え)に要約することができる。しかし、以下のどの主張も、最終的には矛盾に突き当たっており、成功していない。また、以下の考え方は全て、最終的にはジェンダー規範の強化に加担することになり、性暴力を根絶することにはつながらない。
①「良いセックス(愛を確かめ合う、一対一のパートナーシップ、子供をつくるためのセックス)」と「悪いセックス(愛のないセックス、お金を介在させるセックス)」を分けた上で、前者こそが「正しい」とし、セックスワークを「悪いセックス」だとみなす。
②現状の男性中心主義社会において、売買春を行う人は全て、真の自己決定をしていない=なんらかの強制の結果だと主張する。
③部分的にセックスワークを自分の意思で行っている人を認めながらも、「悲惨」な状況にある性産業の現場で苦しめられている人々の救済が社会全体の利益だと考える。「自分の意思だ」と主張しているセックスワーカーを意図的に無視・軽視・否定する。
④セックスワーク/売買春は、人格や精神に悪影響を与える可能性が高いとし、人が人らしく生きて行くうえで「害」であることを主張する。

 ①は、優生思想にもつながる危険な考え方である。性暴力のないセックスを求めるのではなく、あくまで貞操観念・純潔思想に基づいて、セックスの「良い」「悪い」を判断している。そもそも愛のないセックスをする人は、婚姻関係内やパートナー間でも多い。同性間のセックスが「汚い」と差別されてきた歴史から言って、他人の性行為を、「良い」「悪い」と決めること自体が、性的自己決定権の侵害である。また、愛という概念自体も、規範を強化するためのイデオロギーとして作用しているものであり、その曖昧な愛の概念をもってして、愛のあるセックスの方が優れているという根拠にはならない。これは、自らの道徳観を他者や社会に押し付けたいというパターナリズムに基づいた発想である。
 ②は、先に述べた通りで、「自己決定」自体が非常に曖昧な概念である。また、少なくない数の「私が決めた」と主張しているセックスワーカーたちを無視・蹂躙することとなり、現実と照らし合わせても、あまりにも実態とそぐわない。現実から出発すべきである。
 ③女性は、本当はセックスワークをしたいはずがないという純潔思想的偏見、ジェンダーバイアスに基づいた考えである。実際の現場の調査によると、性産業で働く女性のうち、仕事に誇りを持っているのは61・1%。また仕事に対する罪悪感を持っている人は49・2%で、その多くの理由は「内緒にしているから」である(要友紀子、水島希『風俗嬢意識調査』二〇〇五年)。つまり、セックスワークに対する差別・偏見が軽減し、労働環境が改善されれば誇りを持つことができる仕事になる可能性を示唆している。もちろん一度セックスワーカーになったものの、合わない、向いてない、やりたくない、と思う人は他の職業と同様に当然いるし、そういった人々のためにも、セックスワーカー・アクティビストたちは「いつでも、安全に辞められる権利」を求めている。
 また、セックスワーカーたちも性暴力を受けたくないと思っているのは当然のことである。性暴力というものは、セックスワークを規制することによって減じるのではない。セックスワーカーたちが求めているものは、セックスワークの「非犯罪化」と、セックスワークを労働として認め、労働者としての基本的権利を保障させることである。カップル間でも避妊具なしのセックスを本人の意に反してされることがあり、これはセックスすることに同意していたとしても、明らかに性暴力である。セックスワーカーも同じで、初めに定められたプレイ内容以上のことを要求されたら、拒否するし、無理やり意に反する性的行為をされたら、それは性暴力である。
 そして、③の発想も「可哀想な」女性を救済するという強度のパターナリズムに裏付けられた発想であることを確認しなければならない。当事者の声や要求を無視し、非当事者が解決策を決めつける構造こそが差別であり、セックスワーカーたちは被害者だから、そのための判断能力や解決能力がないと言っているようなもので、言語道断である。
 ③の考え方は、性暴力被害者の分断にも加担する。#MeToo運動において、セックスワーカーの性暴力被害者が告発を行った際、相当のバッシングが起きた。これは直截的にはセックスワーク差別に基づくところが大きいと思うが、性暴力とは何か、性暴力を廃絶するためには何が必要なのかということが十分に理解されていないことの裏返しでもある。
 ④これは、「性と人格は深く結びついているため、売買春を単なる労働と見なすことはできない」という性的人格論と呼ばれる、複数の性産業廃絶論者が展開している論のことである。
 性暴力被害がPTSD、トラウマや精神障害発症の原因になることは因果関係が認められているが、セックスワークそのものが、その人の人格を破壊したり、精神的に悪影響を与えたりするということは全く立証されていない。また、性的人格論の最大の陥穽は、性と人格を強固に結び付けているために「性的に活発な女性は価値が低い」「性暴力被害者は(性的な)価値が下がる」などの許されない偏見・差別に対抗することができなくなっていることだ。「人らしい健全な状態」であるためには売買春をしてはならないと考えており、逆に言えば、既に売買春をしている人たちは「人らしくない」状態、人格や精神が「健全ではない」状態になってしまっていると考えているからだ。これは、その人の性的なふるまいや性的な経験によって、その人のコアである人格=本質が連動し、決まるというイデオロギーである。性的人格論の論理は、貞操を守る女性こそが価値があるという家父長制的「価値観」を別の表現でなぞったに過ぎない(性的人格論では売買春をしない、また決まった特定の男性と継続的な性的関係を築くことが女性にとって「良い」とされている)。そもそもとして、性暴力の括り方が乱雑であり論理としても矛盾している。女性のセクシュアリティの解放に繋がらないだけでなく、差別に対する論理ともなりえない。

性暴力を廃絶するために

 これまでセックスワーク規制、性産業廃絶論者の意見を批判してきたが、これらの意見の最大の問題は、セックスワーカーとしてシス女性しか想定していないところにある。
 彼らは、性産業は男性が女性を抑圧するものだと考えているが、実際のセックスワーカーにはゲイ、レズビアン、トランスジェンダーも多く、またシス男性もかなり多い。ゲイやトランスジェンダーのセックスワーカーは歴史的にも最も無権利状態に置かれ、疎外されて来た人々であり、セックスワーカーの権利獲得闘争の中では主体として前線に立ってきた。しかし、性産業そのものを女性抑圧と見ることは、やはりそういったセクシャルマイノリティのセックスワーカーの存在や闘いをも、無視していると言えよう。性暴力は、性自認、性的指向に関係なく、誰でも被害者にも加害者にもなりうる。シス女性は常に被害者なのではなく、性的虐待を含め、性暴力加害者になることもある。性暴力の根本原因は家父長制的なジェンダー規範であって、男性ではない。
 そういった大前提を確認した上で、性暴力を廃絶するためには、文字通り全ての性暴力と闘っていかなければならない。具体的に求められることは、セックスワークの非犯罪化と労働者としての基本的権利の獲得、優生保護法による強制不妊手術=国家による悪質極まりない性暴力についての謝罪と賠償を勝ち取っていくこと、旧日本軍性奴隷制被害者に対する謝罪と賠償の実現、出生前検診の障害者差別に基づいた運用に対する反対、シス女性以外の性暴力被害者たちが排除されない運動の創造、性暴力被害者たちが、その容姿やセクシュアリティ、職業、婚姻関係内か否かによって分断されない闘いの創造、トランスジェンダー差別、同性愛者差別、ノンバイナリー差別と闘うこと、戸籍制度の廃止、ルッキズム反対、性的自己決定権の保障、これらは最低限求められるだろう。
 もちろん性暴力の廃絶はこれらのものだけでなされるわけではなく、ジェンダー規範の解体も同時に強く求められる。ジェンダー規範については、上記の具体的な要求と重なるところもあるが、性暴力とジェンダー規範の関係性については、また別の稿で述べたいと思う。
 全ての性暴力を許さず、全ての人がジェンダー規範から解放される社会を目指して、ともに闘っていこう。

 


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